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引き継ぐものとその先


この数年弟子をとるようになり、自分のなかで庭というもの、庭を生業をすることついて考えることが少し変わってきたような気がする。変わったというよりも物事が以前よりもクリアーに見えるようになったということなのかもしれないし、もしかしたらただ単純に年をとったということなのかもしれない。

庭というものを意識するようになって20数年。自己の生業として携わるようになって15年ほど。

日本における庭の世界とは京都を中心とした庭園文化にみられるようなとても保守的な世界でもあり、反面、装飾性の高い庭というものの性質上、特に現代ではとても自由度の高い(ほとんど節操のないと言えるくらいの)世界でもある。

一般的に、文学や思想、美術、音楽や建築にしても古典、近代という流れがあり、今という現代のかたちが現われるものであるが、私自身が関わる庭の世界においてはそういった意味では古典から近代へという変化やかたちが少なく(7代目植治や重森三玲などはいたが)現代に至っているように思われる。それゆえ、例えば現代建築という言葉は一般化されても現代庭園という言葉が一般的に使われることは少ない。

それは明治維新後、あらゆる事柄で西洋的な近代化が行われた中で造園の世界では西洋的な公園という概念が移入され、公園などの公共空間、都市計画などにおいての造園の近代化が行われはしたが、千年以上続くこの国の庭園文化に近代化を促すような動きはあまりなく、是非はともかく日本の現代の庭の現状とはそのような状態であると私は思う。

日本の庭の世界において近代化という意識が確立されなかった要因は色々とあると思うが、大きな要因として近代への思想が生まれなかったこと、必要とされなかったことだと言うことができる。裏を返せば古典的な庭の世界が危機感をもたなければならない状況というものがなく現代に至っているという、ある意味幸せな状況が続いてきたのだと思う。

そのことはまた、伝統や文化、技術の継承という面においては他の伝統的な世界などよりも恵まれた状況があったのだとも思う。

今、現代において様々な要因により古典的な庭の世界は危機的な時代を迎えているように思う。それは別の言葉を使えば日本の庭の世界が近代化(現代においてあえて)しなければならない状況であるということだと思う。

もちろんここで言う近代化とは合理性や労働環境などのシステムや簡単に異素材を取り入れたり、奇抜なデザインを提出することなどではなく、古典から現代、未来を繋ぐ思想としての近代ということであり、その思想を庭というかたちにするということである。

つづく


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