
庭職考
庭職というものはある意味、真っ当ではない職人だと思う。 別の言葉で言うと職人と呼ぶには生業自体が曖昧で評価を定めづらい職種だと思う。 何かの映像や本などの中で、数ミリ単位のこだわりで轆轤をひく木地師や絹糸を気が遠くなるような精密さで織り上げる機織職人や、私達庭職が日々使う鋏などをつくる鍛冶屋などの仕事を垣間見、それらの職人仕事と私たち庭職の仕事をくらべてみるにつけ、私は自分自身を職人と言うことにある種の躊躇いを感じたりする。 私たち庭職の生業とはつまるところ植物や石などを拾って、据える(置く)ことである。 古くはその土地にある石をコロコロと転がし、山から形の良い木を引き抜いては植え、歩くところには飛び石と称して河原から拾ってきた石をパタパタと据えたりしてきた。そんな行為がそもそも日本の庭職の生業であったとおもうし、現代においても基本的に日本の庭職の行っていることはそれほど変わっていないと思う。 もちろん私たち庭職にも庭木の剪定技術や竹垣作りの技術や石材加工の技術など職人の技術が無い訳ではないが、前述した木地師や機織職人や鍛冶屋などの職工たちが、長

祖父の形見
柳緑花紅。 私の部屋には書を趣味としていた祖父が書いた言葉が額に入れられ飾られています。言葉の意味はその字のごとく柳は緑に、花は紅に、ものごとは自然にあるがままに。 シンプルですが、ものごとの在りようについて深く、そしてすがすがしさとおおらかさを感じる言葉です。 祖父がこの言葉を書にした時は私はまだ子供で、もちろん祖父も私が将来、植物や庭の世界に携わることなど思いもしないことでしたでしょうが、時がたち、祖父は亡くなり、私はいつのまにか花や木を扱うことを生業とするようになりました。 祖父は特別、花などに興味のある人ではなかったように思いますが、形見のようなかたちでその書をもらい、今、私にとってずいぶんと気の効いた言葉をおくってくれたものだなと思います。 柳緑花紅。 私の日々の生業の中でも、日々を生きるうえでも、そのようにあれたらと思っております。