庭職考
庭職というものはある意味、真っ当ではない職人だと思う。
別の言葉で言うと職人と呼ぶには生業自体が曖昧で評価を定めづらい職種だと思う。
何かの映像や本などの中で、数ミリ単位のこだわりで轆轤をひく木地師や絹糸を気が遠くなるような精密さで織り上げる機織職人や、私達庭職が日々使う鋏などをつくる鍛冶屋などの仕事を垣間見、それらの職人仕事と私たち庭職の仕事をくらべてみるにつけ、私は自分自身を職人と言うことにある種の躊躇いを感じたりする。
私たち庭職の生業とはつまるところ植物や石などを拾って、据える(置く)ことである。
古くはその土地にある石をコロコロと転がし、山から形の良い木を引き抜いては植え、歩くところには飛び石と称して河原から拾ってきた石をパタパタと据えたりしてきた。そんな行為がそもそも日本の庭職の生業であったとおもうし、現代においても基本的に日本の庭職の行っていることはそれほど変わっていないと思う。
もちろん私たち庭職にも庭木の剪定技術や竹垣作りの技術や石材加工の技術など職人の技術が無い訳ではないが、前述した木地師や機織職人や鍛冶屋などの職工たちが、長年の鍛錬の末の絶対的な技術に基づいてものをかたちにすることとくらべてみると私たち庭職には絶対的な技術と呼べるほどのものは少ないように思う。
石を転がしたり、飛び石を置いたり、木を植えたり、、、技術と呼べるほどでもない、そのことだけならばだれにでもできることを生業としている。
庭をつくるうえで、技術に依らない部分は実に多い。
しかし、そのことは逆に良い庭をつくるということは技術では辿りつくことのできないある種の深さがあるということでもある。
それは、たとえるならば、素晴らしい詩が決してむずかしい言葉ではなくあたりまえの言葉によってもうまれ得ることにも似ていて、技術だけでは辿りつくこともあらわすこともできないような微細な、曖昧な、ものの関係性などを感じとらえなければならないということでもあり、実際にその曖昧な部分によって庭の良し悪しの多くがうまれる。
石や木や自然の造形物に出来る限り手を加えることをせずに、ただ置くこと。
それは人間の意志が主体となって行われる創造行為とは少し異なる、人間の意図や意志を超越した自然の声をきく霊媒的な能力を必要とする行為だとも言えるかもしれない。
その姿勢はまた、日本文化の美というものに対する優れた特徴のひとつでもある美を見出すこと、見立てることそのものでもあると思う。
日本文化における庭とはすでに存在する自然の美に対して人の意志によって照らしだされた神と人とのせめぎあう祈りの場所のことでもある。
そのような意味において、かって庭職というものがこの世とあの世の狭間に住んでいた河原者からうまれたことからも、庭職とは神職に近い職種と言えるのかもしれない。